Call Me by My Name |『ミツバチと私』
- 野水

- Oct 23
- 9 min read
2023年/128分/スペイン

イザベル・エチェバリア監督の映画『ミツバチと私』(20,000 especies de abejas, 2023年)は、成長物語(coming-of-age story)の形式を取りながら、夏のバスクを舞台に、「男の子」として割り当てられたココ(のちにルシアという)が、自らにしっくりくるあり方と呼び名を探し出していく過程を、きわめて繊細に描き出した作品である。
ココには、三つの名前がある。アイトール――生まれたときに与えられた「男の名前」。ココ――家族や周囲から呼ばれる、中性的な愛称。そしてルシア――自分で見つけ、心から納得できた名前である。
映画の冒頭には、小さな謎が提示される。ココは不機嫌そうで、学校でトラブルを起こしたらしい。クラスメイトのマルチーナの水着を盗んだのではないかという疑いが持ち上がり、家族は動揺する。しかし、ココが本当に盗んだのか、なぜそうしたのかは、観客にも家族にも明らかにされないまま、物語の焦点は母の故郷バスクへと移る。後に推測できるのは、この出来事がココのジェンダー・アイデンティティの模索の一端であり、女児用の水着への関心はその表れであったということである。冒頭の混乱は、ココの問題行動ではなく、むしろ両親の不和、成長期、思春期の揺らぎを抱える三人の子どもたち、そしてバスク行きそのものがもたらす家庭の不安定さを映し出していたのだ。
エチェバリアのカメラは、ココの「不安」や「混乱」をドラマチックに強調することを避け、むしろ日常のさざ波の中に埋め込む。母の苛立ち、兄姉たちの無関心、家族が一緒にいながらもどこかちぐはぐな空気。その不均衡のなかで、子どもだけが敏感に世界の裂け目を感じ取っている。家庭というミクロな社会のひずみが、ルシアの内面の揺らぎと共振している。
<境界の揺れを映す眼差し>
周司あきら・高井ゆと里『トランスジェンダー入門』(2023)によれば、ジェンダー・アイデンティティとは「自分自身が認識している自分の性別」、すなわち「自分がどの性別集団に属しているのか」という自己理解・帰属意識である。たとえば、女性の集団に安定した帰属意識を持つ人は、「女の子たち、集まって」という呼びかけに、自分が含まれていると自然に理解できる。この概念の核心は「誰と一緒にいたいか」ではなく「誰と同じでありたいか(アイデンティフィケーション)」にあるが、子どもにとってこの区別はしばしば曖昧である。ココの場合、自己認識の揺らぎは「大きくなったらお父さんになるのではないか」という不安と、「お母さんと一緒にいたい」という甘えが同時に表出する。彼女の自己像は言語化以前の身体的・感情的経験によって形づくられ、呼びかけに自分が含まれているかどうかという即時的な反応として可視化される。
周司・高井は乳幼児期にはまだ明確なジェンダー・アイデンティティがない一方で、成長過程での扱われ方を通じ自己像を確立していくと指摘する。この映画はその「形成のプロセス」を丁寧に追い、ジェンダーを固定的な属性ではなく流動的に生成されるものとして描く。ルシアが呼びかけに自分を素直に含められない瞬間やためらい――髪を触る、口をゆがめる、沈黙する、母に抱きつく、視線をそらす――をカメラは一つ一つ丹念に捉えていく。多くの成長物語にある「ある日突然の自己発見」という単純化を避け、呼びかけと応答の反復、世界との小さな衝突や受容の積み重ねとしてジェンダー・アイデンティティの生成を示している。
<外からの規範、内からの声>
前川直哉(『基礎ゼミ ジェンダースタディーズ』、2025)は、私たちが生まれた瞬間から「女性/男性」としての行動を求められると述べている。『ミツバチと私』が巧みなのは、この「外部の規範」と「内面化された規範」がどのように交差するのかを、子どもの視線の高さで描き出している点だ。
バスクの家では、祖母や叔母が「男の子なのだから髪を切るべき」と言い、プールでは管理人の娘が、ルシアの身体を覗き見た後に「男の子なのに座っておしっこするの?」と問う。世界は常に「名づけ」と「区別」を迫る。ルシア自身もまた、ミツバチを怖がる自分を「怖がりの女の子みたい」と形容し、同時に「女の子は怖がるものだ」というステレオタイプに依拠して自分を理解しようとする。その中で注目すべきは、大おばルーデスの対応である。彼女はルシアの自己認識を無条件に受け入れ、「怖がりの女の子」という言葉に対して、「冷静だったよ」と返す。そこには「女の子/男の子」という枠組みではなく、ルシアという一個の存在の特質に焦点を当てるまなざしがある。
映画は、こうした多様な声──規範的な期待、好奇心、理解、そして無条件の受容──を丁寧に描き分けながら、ルシアが外部からの規定と自己規定のあいだで、揺らぎつつも身体と関係性を編み直していくプロセスを示している。そこにこそ、『ミツバチと私』が提示するジェンダーの「生成」と「生の主体化」の可能性がある。

この映画には、物語の背後で静かに脈打つ二つの副主題がある。
ひとつは、世代を超えて連鎖する「女性のあり方」の多層的モチーフ。もうひとつは、「アーティストとして生きること」をめぐる現実的な葛藤である。
<女性であること>
本作は、登場する女性たちを単なる家族の系譜としてではなく、それぞれが置かれた社会的・経済的条件のなかで体現する「女性であること」の戦略として描き出している。彼女たちは世代を超えて、「生の持ち方」「労働と愛の分配」「創造とケアの両立」という問題をそれぞれの仕方で引き受けている。
祖母リタは、夫のマネージャーであり、簿記係であり、宣伝担当でもあった。芸術家としての男性の自由の背後に、こうした不可視の女性労働があることを映画は見逃さない。その「献身」は美徳として語られる一方で、見えない搾取の構造をも静かに露わにしていく。
対照的に、養蜂家ルーデスは、自然と直接向き合いながら身体労働と技術の継承を担う存在である。蜂群の維持、蜂療法、蜜蝋づくりといった仕事の連なりは、女性が「支える側」としてのみ想定されてきた構図を超えるものだ。ルーデスが最も開かれた精神の持ち主として描かれるのは、彼女が自然や共同体との関係を通じて、より広い世界に触れているからだろう。
母アネの妹レイレは、地元に根ざし、家庭を築く幸福を体現する伝統的な女性像である。彼女の保守的な価値観は、限られた世界の中で完結する満足と繋がっている。一方、アネ自身は芸術的な才能を持ちながら、創作よりも子どもと家庭を優先せざるを得ない。その姿に重なるのは、創造とケアの両立を迫られる現代女性の現実であり、「自己実現」と「家族責任」が衝突する構図そのものである。
若い世代――思春期のネレア、自由奔放なニコ、そして苦悩するルシア――は、それぞれ異なる形でジェンダー規範に応答する。ネレアは「理想的な身体」への憧れを通して規範を内面化し、ニコは恐れを知らずにその枠組みを軽やかにすり抜ける。ニコにとってルシアは特別な存在ではなく、ただの「友達」であるという無邪気さが、むしろ真の包摂を体現している。ルシアは、ジェンダー・アイデンティティに揺れながらも、「女らしさ」をめぐる規範を同時に内面化している(「女の人なら胸が目立つ」「怖がるのは女の子みたい」)。その二重性のなかで、彼女は、もっとも切実な社会的葛藤の場となる。
世代を重ねて描くことで、映画は「女性」というカテゴリーの単一性を静かに解体していく。
映画の中で、祖母はココのジェンダー・アイデンティティの揺らぎを「女ばかりに囲まれて育ったから」と説明しようとする。その言葉には、環境要因に原因を求める発想、つまり「逸脱」の責任を家庭の女性たちに帰す視線が潜んでいる。だが映画は、その因果をあっさりと裏切る。ココの兄エネコも、同じ環境で育ちながら、父を模範として選び、父と共に過ごしたがる。つまり、ジェンダーの形成を単純な環境要因に還元することはできないのである。むしろこの家族では、「女ばかりに囲まれている」ことが、ココにとって多様な女性像に触れる機会をもたらしている。祖母、大叔母、母、叔母、姉、ニコ――それぞれが異なる社会的環境・経済的条件のなかで異なる生のかたちを体現しており、その差異こそが、ルシアが自らの在り方を模索するための“生の見取り図”となっている。
<アーティストという職業>
アネという人物を通して、映画は「アーティストであること」と「母であること」がいかにして衝突し、また共存し得るのかという古くて新しい問いを見つめている。
リタがアネに言う──「その道を歩むなら、子どもは一人で十分。でもあなたは三人も産んだ」。この言葉は単なる小言ではない。そこには、創作の自由と母性が両立しにくいという社会的前提が凝縮している。芸術には「余裕」が必要だが、再生産労働(出産・育児・家事)はその余裕を容赦なく侵食する。アネが工房にこもろうとすれば、子供たちも連れて行かないといけない。映画はその衝突を理屈ではなく、空間と時間の制約として可視化する。
祖母リタの言葉は制度的な制約を示す一方で、彼女が回想する祖父の一言は、より微細な抑圧の輪郭を浮かび上がらせる。「かわいらしい作品だね」――一見褒め言葉の形をとりながらも、その言語は評価の枠を狭めるものである。男性アーティストの作品が「普遍的」「社会的」と称賛されるのに対し、女性の表現はしばしば「かわいらしい」「私的」と形容され、職業的評価の射程から外されてしまう。映画は、この言語の軽さがアネの創作意欲にどれほど影響を及ぼしたかを直接的に描いてはいない。しかし、アネが作品創作や就職、日常生活の葛藤の中で常に忙しく、苛立ち、自分を弁護しようとする姿勢から、その影響は十分に推し量ることができる。
こうした構図は、祖母リタの世代にもつながる。かつて彼女は夫のマネージャーであり、経理係であり、宣伝担当でもあった。芸術家である男性の「自由」の背後には、常にその自由を支える女性の見えない労働が存在する。映画はこれを単なる世代的な連鎖としてではなく、「支える/支えられる」という芸術労働におけるジェンダー的構造として描き出す。アーティストという職業を選ぶことは、決して純粋な「個人の選択」ではなく、制約する社会制度の中で、どのような選択の余地があるのかという問いを浮かび上がらせる。
映画のラスト、ルシアは車の中から窓越しに外の景色を見つめる。その表情は一筋縄ではいかず、複雑で読み取りにくい。蜂さんに告げ、家族に承認され、生まれ変わったかのようなルシアの未来には、いったい何が待ち受けているのだろうか。観客として私たちは、ただ彼女の幸福を祈ることしかできないのかもしれない。しかし同時に、この物語は問いかける――自分自身の心を開き、偏見や先入観を離れて、一人ひとりが少しずつでも、より開かれた世界を作っていくことの重要性を。
第36回(2023)TIFF ワールド・フォーカス出品、エシカル・フィルム賞受賞作品

